最終更新日 2025年5月14日
東京の空の下で暮らす日々が、ふと「ふるさと」という言葉の重みを教えてくれることがあります。
雪国・新潟で育った私の記憶と、絶え間なく変化する都市の光景。
その交差点に立って初めて見えるものがありました。
「地方から照らす東京」——。
これは、ライターとして活動する私が、ずっと大切にしている視点です。
生まれ育った場所を離れてみて初めて、その意味を深く考えるようになりました。
この街の喧騒の中で、私は何度も、雪の朝の静けさを思い出します。
それは、単なるノスタルジーではない、もっと確かな感覚。
この場所で言葉を紡ぐ意味を、そして私にとっての「ふるさと」とは何かを、少しだけお話しさせてください。
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子ども時代の風景──「新潟」という原風景
私の原風景は、いつだって新潟にあります。
そこには、都市の華やかさとは違う、静かで確かな時間が流れていました。
雪の朝、静けさとやさしさ
しんしんと雪が降り積もった朝の、あの独特の静けさを覚えていますか。
世界から音が消えてしまったかのような、不思議な感覚。
窓を開けると、ひんやりとした空気が肌を刺し、一面の銀世界が広がっていました。
それは、厳しい冬の景色であると同時に、どこまでもやさしい光景でもありました。
雪はすべての音を吸い込み、日常の喧騒を遠ざけてくれる。
その静寂の中で、私は多くのことを感じ、考えていたように思います。
「雪の朝の静けさを、何度も文章に書きたくなるという。」
この感覚は、今でも私の創作の源泉の一つです。
家族との時間と地元の「当たり前」
雪解けを待ち、春には芽吹く草花に心躍らせ、夏は蝉の声を聞き、秋には黄金色の稲穂が垂れる田園風景を眺める。
そんな四季の移ろいが、家族との時間の中にありました。
地元の食材を使った母の手料理。
お祭りや地域の行事。
それらはすべて「当たり前」の日常でしたが、今思えば、かけがえのない記憶です。
近所のおじさん、おばさんとの何気ない挨拶。
学校帰りの道草。
そうした小さな出来事の積み重ねが、私という人間を形作っていったのだと感じます。
「地味さ」のなかにある、確かな美しさ
新潟は、よく「地味だ」と言われることがあります。
確かに、刺激的なエンターテイメントや、きらびやかなネオンサインは少ないかもしれません。
でも、その「地味さ」の中にこそ、本質的な美しさや豊かさがあるのだと、私は思うのです。
それは、日々の暮らしの中に丁寧に織り込まれた、手触りのある美しさ。
派手さはないけれど、心に深く染み入るような、滋味深い魅力。
そのことに気づかせてくれたのは、皮肉にも、新潟を離れてからの日々でした。
東京に出て見えた「ふるさと」
新しい世界への憧れを胸に、私は東京の大学へ進学しました。
そこでの日々は、刺激に満ちていましたが、同時に「ふるさと」という存在を強く意識させるものでもありました。
大学生活と“都市の光”に包まれて
東京は、まばゆい光に満ちた都市でした。
新しい価値観、多様な人々、無限に広がる可能性。
何もかもが新鮮で、私は夢中でその光を追いかけました。
情報が溢れ、物事が目まぐるしく変化していくスピード感。
それは、新潟で過ごした時間とは全く異なるものでした。
そのコントラストの中で、私は時折、故郷のゆったりとした時の流れを思い出していました。
自分の声を持つ──ブログに綴った新潟
大学時代、私はZINE文化やエッセイに影響を受け、個人ブログを始めました。
そこで綴っていたのは、主に地元・新潟の記憶。
雪の日のこと、通学路の風景、家族とのこと。
それは、誰かに見せるためというより、自分自身のために書いていたような気がします。
東京という大きな都市の中で、自分という小さな存在を見失わないように。
新潟での記憶を言葉にすることで、私は自分の「声」を確かめていたのかもしれません。
それは、まるで灯台の光のように、遠く離れた場所から私を照らしてくれる、大切な作業でした。
比較ではなく「距離」から生まれた気づき
東京と新潟。
二つの場所を比較して、どちらが良い悪いという話ではありません。
大切なのは、物理的な「距離」ができたことで、初めて客観的にふるさとを見つめ直すことができた、という点です。
離れてみて初めて気づく、空気の匂い。
離れてみて初めてわかる、人の温かさ。
離れてみて初めて理解する、言葉のニュアンス。
それは、まるで長く使っていた万年筆のインクを変えてみるような、新鮮な驚きに満ちた発見でした。
「ふるさと」は、ただそこにあるだけでなく、離れることでその輪郭がより鮮明になる場所なのかもしれません。
編集という仕事と地方へのまなざし
大学卒業後、私は都内のコンテンツ制作会社に就職し、編集者としてのキャリアをスタートさせました。
そこで関わった地域系メディアや観光プロモーションの仕事は、私の「ふるさと」へのまなざしを、さらに深めることになります。
地域系メディアで学んだ「語り」の力
地域系メディアの仕事は、その土地に住む人々の「声」に耳を傾けることから始まります。
一つ一つの言葉に込められた想い、歴史、そして未来への願い。
それらを丁寧に拾い上げ、編み直し、伝えていく。
その過程で、私は「語り」の持つ力の大きさを実感しました。
誰かが真摯に語る言葉は、時にどんな統計データよりも雄弁に、その土地の魅力を伝えてくれるのです。
- 地域の隠れた宝物:地元の人しか知らない名店や絶景スポット。
- 受け継がれる伝統:祭りや工芸品に込められた先人の知恵と想い。
- 新しい挑戦:地域を盛り上げようと奮闘する人々の情熱。
これらの「語り」に触れるたび、私は地方の持つ底知れない可能性を感じずにはいられませんでした。
「見る」から「感じる」へ──東京から地方を考えること
以前は、どこか「東京から地方を見る」という視点があったかもしれません。
しかし、編集の仕事を通して多くの地域と関わる中で、その視点は少しずつ変化していきました。
単に情報を集めて発信するのではなく、その土地の空気を「感じる」。
そこに住む人々の息づかいを「感じる」。
そうすることで初めて、本当に心に響くコンテンツが生まれるのだと気づいたのです。
それは、まるで旅先で出会った風景に心を奪われるように、直感的で、感情を揺さぶる体験でした。
東京にいながらにして、日本各地の多様な文化や価値観に触れることは、私自身の視野を大きく広げてくれました。
地方発信のコンテンツに込めた願い
私が地方発信のコンテンツ制作に携わる上で大切にしているのは、「地方から照らす東京」という視点です。
それは、地方の魅力を一方的に発信するのではなく、地方の視点から見た東京の姿や、都市生活のあり方を問い直す、という意味合いも込めています。
地方が持つ価値とは何か?
価値の種類 | 具体例 |
---|---|
時間的価値 | ゆったりとした時間の流れ、丁寧な暮らし |
空間的価値 | 豊かな自然、美しい景観、広い空 |
人間的価値 | 温かい人との繋がり、コミュニティの存在 |
文化的価値 | 独自の食文化、伝統行事、歴史的建造物 |
これらの価値は、時に都市生活で見失われがちなものです。
地方発信のコンテンツを通して、そうした価値に光を当て、読者一人ひとりが自身の暮らしや幸せについて考えるきっかけを提供できればと願っています。
「ふるさと」は場所ではなく、呼び戻す感覚
「ふるさと」とは、一体何なのでしょうか。
それは、単に地図上の特定の場所を指す言葉ではないように、今の私は感じています。
ふとした瞬間に蘇る記憶とにおい
東京の街を歩いているとき。
電車の窓から流れる景色を眺めているとき。
あるいは、スーパーで新潟産の野菜を見かけたとき。
ふとした瞬間に、新潟の記憶が鮮やかに蘇ることがあります。
それは、雪の匂いであったり、田んぼを渡る風の感触であったり、祖母が作ってくれた笹団子の甘い香りであったりします。
これらの記憶は、私の中に深く刻み込まれていて、何かの拍子に呼び起こされる。
その時、私は確かに「ふるさと」を感じるのです。
変わるものと、変わらないもの
久しぶりに新潟に帰ると、街の風景が変わっていて驚くことがあります。
新しいお店ができていたり、昔ながらの建物が取り壊されていたり。
時間は確実に流れていて、故郷もまた変化し続けています。
でも、変わらないものも確かにあります。
信濃川の雄大な流れ。
夕焼けに染まる空の広さ。
そして、迎えてくれる家族や友人の笑顔。
その変わらないものに触れるたび、私は安堵し、心が満たされるのを感じます。
「ふるさと」とは、変化を受け入れながらも、変わらない安心感を与えてくれる存在なのかもしれません。
「新潟」は私の輪郭をくれる場所
私にとって「新潟」は、単なる出身地以上の意味を持っています。
それは、喜怒哀楽の原体験が詰まった場所であり、私の価値観や感受性の土台を形作った場所。
東京という多様な価値観が混在する場所で、時に自分を見失いそうになることもあります。
そんな時、新潟での記憶は、私自身の「輪郭」を確かめさせてくれるのです。
「私は、新潟の雪の中で育った人間なんだ」
そう思うと、不思議と心が落ち着き、また前を向く力が湧いてきます。
それは、私にとってのお守りのような感覚に近いかもしれません。
まとめ
東京での暮らしは、私に多くの刺激と成長の機会を与えてくれました。
しかし同時に、遠く離れた「ふるさと」新潟への想いを、より深く、豊かなものにしてくれたように感じます。
都会の喧騒と、雪国の静寂。
その両方を知っているからこそ見える景色があり、書ける言葉がある。
「地方から照らす東京」という視点は、この経験から育まれた、私にとっての道しるべです。
新潟の「地味さ」は、決してネガティブなものではありません。
それは、流行に左右されない、本質的な豊かさ。
日々の暮らしの中に息づく、ささやかだけれど確かな幸せ。
そのことに気づけた今、私はその「地味さ」を、揺るがない誇りとして胸に抱いています。
この記事を読んでくださったあなたにとって、「ふるさと」はどんな場所ですか?
それは、どんな記憶や感覚と結びついているでしょうか。
もしよろしければ、いつかあなたの「ふるさと」の話も聞かせてください。
きっとそこにも、あなただけの美しい物語があるはずですから。